糺(ただす)の森に引き寄せられて

日々考えたこと、感じたことをつれづれなるままに。

自分が生かされている理由(「やりたいこと」が見つからないときに その3)

この土日で、UBIソフトのテレビゲーム「アサシンクリード オリジンズ」をクリアした。これがとても面白くかったのだけど、キャラクターの生き様にも強く惹かれた。

ネタバレしないように詳細についてはコメントを差し控えるけど、出てくるキャラクターが(敵味方問わず)「これが自分の使命なんだ」と思っている感があり、その使命感がかっこいいのだ。

 

その姿を見ていて、ふと、「最近、『自分は〇〇のために生かされている』って考えることが無くなったなぁ」と感じた。

 

恥ずかしいことを言うようだけど、多感な思春期の時代は僕も使命感に燃えていたことがあった。

きっかけは、政治経済の授業で「南北問題」(国家間格差問題)をやったこと。

その内容を聞いた僕は、「自分は不自由のない生活をしているのに、世界には今日の食べるものにも困っている人がいるなんて!」と強い衝撃を受けた。

そして、「南北問題についてもっと突き詰めたい。この問題に取り組むことが僕の使命だ!(そして、本当にこの道を極めるのなら、個人としての幸せを後回しにしても、社会に尽くさなくては!)」と思ったものだった。

 

しかし、いつの間にか興味の方向は変わり、熱意も薄まり、今となっては個人としての幸福を優先する生き方をしてしまっている。

そしていつからか、「僕は何をしたいんだろう?本当にやりたいことなんてなかなか見つからないよなぁ」なんて考えるようになっていた。かつて「南北問題を探求したい」と思い、使命感に燃えたことも忘れて。

 

そんな時にプレイした「アサシンクリード オリジンズ」で、(大げさに言えば)この世界に「使命感に駆られて生きる人生」があるということを思い出すことができた。

 

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就職活動の頃から、僕は「やりたいことを見つけ、それに向かっていくべき」というような論調をよく聞くようになった。でも、(過去の記事に書いたように)僕はなかなか「やりたいこと」を見つけられずにいる。

 

そんな時の発想のヒントを、テレビゲームが与えてくれたような気がした。

 

使命を見つけること、(よりオーバーな表現を使うならば)「自分が生かされている理由」を見つけることだって、「やりたいことを見つけること」に負けず劣らず、有意義じゃないか。

 

「やりたいこと」は自分をスタートに据えた「人生のミッション」だけど、

「自分が生かされている理由」は社会をスタートに据えた「人生のミッション」だ。

 

「やりたいこと」は自分に端を発するので、僕のように人としての器が大きくない場合は、その先に描けるものも小さくなるかもしれない。

でも、「自分が生かされている理由」は、自分の大きさに制約されないかもしれない。

 

僕も、使命感を持って生きることが出来たらなぁ。

 

 

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では、使命はどうやって見つけるか。いや、どうやったら「与え」られるか。

その答えはわからない。

 

多分、自分を高めるためにひたむきに頑張っていれば、そのうち見えてくるんじゃないかな。

 

「天は自ら助くるものを助く」というくらいだ。

ひたむきに頑張る姿は、きっと誰かが見ている。

ひたむきに頑張っていれば、誰かが声をかけてくれたのをきっかけに、新しいものが見えてくるかもしれない。何かのきっかけで、使命が見えてくるかもしれない。

 

努力家とは言えない僕だけど、自分を磨くために頑張る気持ちは忘れないでおきたい。