糺(ただす)の森に引き寄せられて

日々考えたこと、感じたことをつれづれなるままに。

優秀さとは、「できないかもしれない」を前提にすること

幸せなことに、これまで僕の周りには優秀な人が多かったし、今も多い。

 

だからだろうか、ふと、優秀な人は何が違うのか、と考えることがあった。

頭の回転が早いとか、器用だとか、いろんな条件があるだろう。

そもそも「優秀」といってもいろんなタイプがいる。

特定分野で卓越した能力を発揮する天才型の人、あらゆることをそつなくこなす人、何事も計画的に進められる人。

 

 

 

最近は、最後の「何事も計画的に進められる人」がことさら優秀に思われる。

僕は計画的に物事を進めるのが苦手だ。

だから尚更、そういう人が眩しく見える。

 

では、「何事も計画的に進められる」タイプの”優秀な人”は何が違うんだろうか。

その条件の一つとして思い当たったのは、「『できないかもしれない』を前提にすること」だった。

 

 

僕のような無計画な人間は、「どうせなんとかなるさ」という無根拠な確信が行動原理になっている。

幸いこれまでの人生は追込み型でなんとかなってきたから、尚更タチが悪い。今でも無計画なままだ。

ただ、このタイプはいざとなると困る。

「なんとかなるさ」と思っていたものだから、土壇場でのアクシデントや予想外の出来事にめっぽう弱い。

 

対して上で言う”優秀な人”はそうはならない。

まずもって無理のない計画に基づいて、着実に動く。必要な準備は前もってきちんとやっている。

その背景には、「できないかもしれない」という、健全な謙虚さがあるのではなかろうか。

突発事項が起こってスケジュールが狂い、予定通りには「できないかもしれない」。

だから、余裕を持っておこう。

大事な商談で、その場でうまい切り返しが「できないかもしれない」。だから、事前にシミュレーションとストーリー立てをきっちりやっておこう。

自分の能力は自分が考えているほど高くはないから、別プランを持っておこう。

そんな風に思考が回ってるんではなかろうか。

そして、こうした謙虚さを持った人の方が、結果的には高いパフォーマンスを発揮する。

 

 

優秀さとは、「できないかもしれない」を前提にすることなのかもしれない。

 

優秀な人ほど、謙虚だろう。

アリとキリギリスが競ったら、勝つのはアリなのだ。

 

キリギリス型の僕は精進しないといけない。