糺(ただす)の森に引き寄せられて

日々考えたこと、感じたことをつれづれなるままに。

人生の北極星を見失っていないか?〜夢と羅針盤について(「やりたいこと」が見つからないときに その2)

1.人生の北極星

 

「人生の北極星を見つけよう」。

学生時代の恩師の言葉。

北極星は北の空に浮かび、地球の自転によってもほとんど動かないゆえに、昔から航海の目印となってきた。

「人生の北極星」とは、生涯続く「航海」の羅針盤になるもの。自分が生涯目指す方向性。

 

これまで社会人を3年以上やってきて、今ここでふと立ち止まると、人生の北極星を見失っているように思う。

いや、元々見つけられていなくて、今もまだ探しているのかもしれない。

 

人生の北極星を見失っていないか?

今自分が歩んでいる道は、北極星へと続いているか。

 

時々はそんなことを考えながら生きていきたい。

 

 

2. 夢と目標

では、「人生の北極星」とは具体的にどういったものか。

まず真っ先に思い浮かんだのは、「夢」と「目標」。

では、「夢」と「目標」はどう違うのか?「北極星」にふさわしいのはどちらか?

 

夢と目標について、ゲームデザイナーの小島秀夫さんは、コナミ在職時のネットラジオ(『小島秀夫の「ヒデラジ」』第308回)で概ね以下のようなことを言っていた。

 

“「夢」は叶わないほどでっかいもの。「〇〇になりたい」「〇〇の資格をとりたい」といったものは目標。目標の先にはもっとやりたいことがあるはず。たとえば、ある資格を取るのはその先にやりたいことがあるからではないか。"

(注:原文ママではありません)

 

もちろん、何が夢で何が目標かは、人それぞれだろう。

ただ、この話を聞いていて、北極星の話と通じるな、と思った。

「〇〇になりたい」といった目標を北極星にしてしまうと、その〇〇になった途端に目指す方向性がなくなってしまって、新しい方向性を探し直さなくてはいけなくなってしまう。

北極星にはでっかい夢を掲げて、そこに至るステップを目標として捉えて行くのがいいんじゃないかな。そうすれば、自分の歩む道が北極星の方へと向かっているかもチェックしやすい。

 

 

3.夢が見つからなかったらどうすればいいか

では、北極星になるような夢が見つからないときはどうすればいいか。

人生に目的がないといけないとは思わないけど、あるに越したことはないから、夢に代わる羅針盤を見つけたい。

そんなときに役立つのは、先人が遺した言葉や、先人の人生ではなかろうか。

好きな言葉でもいい。尊敬する人物でもいい。感銘を受けた本でもいい。そうしたものを一つ胸に抱いていれば、生き方に悩んだとき、きっと判断軸を提供してくれる。夢のように目指す方向性を示してはくれないかもしれないけど、生き方の軸を示してはくれるから、北極星のような役割を果たしてくれるだろう。

それに、夢に代わる羅針盤を抱いて日々一生懸命生きていれば、そのうち夢も見つかるんじゃないか。

 

 

 

 

僕自身、まずは羅針盤を一つ抱いて頑張っていきたい。

 

優秀さとは、「できないかもしれない」を前提にすること

幸せなことに、これまで僕の周りには優秀な人が多かったし、今も多い。

 

だからだろうか、ふと、優秀な人は何が違うのか、と考えることがあった。

頭の回転が早いとか、器用だとか、いろんな条件があるだろう。

そもそも「優秀」といってもいろんなタイプがいる。

特定分野で卓越した能力を発揮する天才型の人、あらゆることをそつなくこなす人、何事も計画的に進められる人。

 

 

 

最近は、最後の「何事も計画的に進められる人」がことさら優秀に思われる。

僕は計画的に物事を進めるのが苦手だ。

だから尚更、そういう人が眩しく見える。

 

では、「何事も計画的に進められる」タイプの”優秀な人”は何が違うんだろうか。

その条件の一つとして思い当たったのは、「『できないかもしれない』を前提にすること」だった。

 

 

僕のような無計画な人間は、「どうせなんとかなるさ」という無根拠な確信が行動原理になっている。

幸いこれまでの人生は追込み型でなんとかなってきたから、尚更タチが悪い。今でも無計画なままだ。

ただ、このタイプはいざとなると困る。

「なんとかなるさ」と思っていたものだから、土壇場でのアクシデントや予想外の出来事にめっぽう弱い。

 

対して上で言う”優秀な人”はそうはならない。

まずもって無理のない計画に基づいて、着実に動く。必要な準備は前もってきちんとやっている。

その背景には、「できないかもしれない」という、健全な謙虚さがあるのではなかろうか。

突発事項が起こってスケジュールが狂い、予定通りには「できないかもしれない」。

だから、余裕を持っておこう。

大事な商談で、その場でうまい切り返しが「できないかもしれない」。だから、事前にシミュレーションとストーリー立てをきっちりやっておこう。

自分の能力は自分が考えているほど高くはないから、別プランを持っておこう。

そんな風に思考が回ってるんではなかろうか。

そして、こうした謙虚さを持った人の方が、結果的には高いパフォーマンスを発揮する。

 

 

優秀さとは、「できないかもしれない」を前提にすることなのかもしれない。

 

優秀な人ほど、謙虚だろう。

アリとキリギリスが競ったら、勝つのはアリなのだ。

 

キリギリス型の僕は精進しないといけない。

やりたいことを見つけるのは、やらないことを選別すること(「やりたいこと」が見つからないときに その1)

今日は、先日休みを貰ってスーパー銭湯のお風呂に入っていた時に考えたことを書こうと思う。

 

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「やりたいことを見つけなさい」

 

就職活動中によく聞いた言葉。

当時から「そうは言われてもなかなか見つからないよ」と思っていたし、

悲しいかな、今でも「やりたいこと」はよく分からない。

 

いや待てよ、とふと思った。

 

自分が「やりたいこと」を見つけられないのは、「やりたくないこと」を切り捨てられていないからなんじゃないか?

 

 

こんなことを考えるようになったきっかけは、多分漫画『進撃の巨人』。

劇中、主人公の幼馴染であるアルミンがこんなことを言っていた。

 

”何かを変えることのできる人間がいるとすれば、

その人はきっと…

大事なものを捨てることができる人だ”

諫山創進撃の巨人』(講談社) 第27話より)

 

当たり前のことではあるけれど、人が何かを選び取るとは、「選ぶもの」を決めるのと同時に、「選ばないもの」を決めることでもある。

 

それであれば、「やりたいこと」を見つけるためには、「やらないこと」を決めなくてはいけない。

 

世の中の「やりたいことをやっている」人には多分二種類いて、

①「やりたいこと」をやるために、「やらないこと」を切り捨てた人

と、

②「やりたいこと」がやりたすぎて、「やらないこと」のことなんか考える暇もない人

がいるんじゃなかろうか。

 

後者になるのは、その人の性格の問題とか、夢中になれるほど「やりたいこと」と出会えるかとかの問題もあって、ある種運任せになるんではなかろうか。

 

でも、前者のパターンならもっと意図的に「やりたいこと」に到達できそう。

 

「やりたいこと」を一つ見つけるのは、難しい。

 

でも、「やりたくないこと」を挙げていくのは、まだやりようはありそうだ。

 

消極的な「やりたいこと」の見つけ方だけど、これなら自分にもできそうだ。

そして、「やりたくないこと、やれないこと」について、「やれるかもしれない」という淡い期待を捨てて、切り捨てるものは切り捨てる。

 

そうしていけば、もう少し「やりたいこと」が見通せるかもしれない。

 

僕も25歳を超え、人生のおおよそ3分の1、元気に動ける歳としてはもう2分の1くらいが過ぎた。

人生を楽しく生きるために、「やりたいこと」を絞り込んでも良いんじゃないか。

 

やりたいことを見つけることは、やらないことを選別するのと表裏一体なのだ。

『一度きりの人生』と言われても〜時間軸の捉え方を変えたらスッキリした話〜

「一度きりの人生だから、○○しなきゃ勿体ないよ!」

チャレンジをしようか迷っているときに、こうした言葉を聞くことはよくあるかと思います。

僕自身はなぜか、こういう言葉を聞いても実感が乏しいタイプです。

ところが先日、捉え方を変えてみたらストンと胸に落ちました。

今回はそんな話です。

 

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迷っている人の背中を押すとき、そして何より迷っている自分を奮い立たせるときに、

人生の有限性を訴えかけることはよくあることかと思います。

 

例えば、「一度きりの人生なんだから」という表現はよく聞くし、

 

あのスティーブ・ジョブズ氏の有名な言葉にも、

「もし今日が自分の人生最後の日だとしたら、今日やる予定を私は本当にやりたいだろうか?」

とあります。

 

いずれも、”人生・時間が限られていること”を強調することで、人を奮い立たせる表現だと捉えることができるでしょう。

 

ただ、自分自身でも不思議なことに、僕はこうした言葉に今一つ実感が持てずにいました。

 

”人生”という大きな枠で訴えかけられても、漠然としていてなんだか掴み所がなかった。

とはいえ、「今日が人生最後の日だとしたら」と言われても、唐突すぎてなんとなく非現実的だった。

 

元来想像力が豊かな方ではないので”人生”というロングスパンも、”今日が人生最後の日”という仮定も、イメージがつきづらかったのです。

 

 

でも、先日キャリアについて考えている時に、捉え方を変えれば僕でも実感が得られることに気づきました。

 

それは、「一年後に自分が死ぬとしたら、どう生きたいか?」という問いかけでした。

 

僕にとっては、切迫感を持って人生の有限性を捉えようとした時に、「一年後の死」という想定が丁度良いということが分かりました。

 

最初は「5年後に死ぬとしたら」と考えてみましたが、切迫感は今一つ足りませんでした。

 

おそらく、人によって時間軸の捉え方が違うのでしょう。

たぶん僕は近視眼的な時間軸の捉え方をしているがゆえに、”人生”という単位はロングスパンすぎた。

一方で、僕の性格が楽観的であるがゆえに、”今日が人生最後の日”という考え方は現実味がないように感じられてしまった。

 

これまで「一度きりの人生、自分は何がしたいか?」と考えてもなかなかイメージの湧かなかった僕が、

「一年後に死ぬとしたら、自分は何がしたいか?」と考えることで、ようやく具体的なイメージを持つことができました。

物事を考えるときにはきっと、その人に合った時間軸というものがあるのでしょう。

自分に合った時間軸で捉えると、きっと物事はより見通しやすくなる。

そんな話でした。

 

 

 

最後に、(話は逸れますが)林修氏は著書「いつやるか?今でしょ!」で、物事を逆算して考えることについて、次のように言っています。

”①どれだけ先の自分が見えるかは、その人の環境によって異なる。

 ②どれだけ先の自分から逆算すべきかは、その人の意志の強さに比例する。”

林修(2014)『いつやるか?今でしょ!』宝島社 p. 113)

 

僕が初めてこの言葉に触れた時は、②ばかりが印象に残ったものです。そして、遠い未来から逆算して人生設計ができるような意志の強さが欲しいと思いました(今回の記事に絡めれば、5年とか、10年先まで想像力を働かせることができるようになりたいと思ったりしました)。

ただ、ブログを書くにあたって今一度読み返してみたら、この本には「未来から逆算すること」等についてもっと広範な話が書かれていて、改めて興味深く読んでしまいました。興味があればご一読ください。

 

それでは、今回はこんなところで。